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父の愛

☕ このように過ごしてみてください 心を楽にして文章の流れをひと通り眺めたあと、画面下の音声に耳を傾けてみてください。すべて聴き終えたら、最後にある「一緒に考えてみましょう」の問いに答えながら、心に残った思いを静かに整理してみるのもよいでしょう。

自分の力だけでは受け止めきれないとき、私たちはどこに目を向ければよいのでしょうか。私は、放蕩息子のたとえに描かれた父の待つ心と憐れみを、あなたと一緒にたどってみたいと思います。

人の限界を前にして

私は、ある人の最期の時をそばで見守る中で、愛する人であっても、そのすべてを代わりに背負うことはできないという現実に向き合いました。そのとき、穏やかな日々だけでなく、恐れや限界を覚えるところにも、ともにいてくださる神をもう一度見つめました。受け止めきれないときに一人ではないという信仰について、あなたと一緒に考えてみたいと思います。

自分だけで生きようとする心

私たちは強そうに見えても、ほんの小さなことで簡単に揺れてしまう存在です。神なしでも自分の力だけで生きられると思うときもあります。けれども、糸の切れた凧が自由になるのではなく行く先を見失うように、神との関係を離れた自由が私たちをどこへ連れていくのか、一緒に振り返ってみたいと思います。

放蕩息子は父のもとを離れ、自分の思いどおりに生きようとしました。私はこの姿に、神との関係を離れ、自分の思いだけを追い求めようとする私たちの心を見ます。望むものをすべて追いかければ、本当に満たされるのでしょうか。

帰ることができる理由

すべてを失った放蕩息子に残された希望は、自分の力ではなく父でした。まだ遠く離れていたのに、父が息子を見つけた場面は、ルカによる福音書 15:20に記されています。

私は、家を出た息子を見捨てず待ち続けた父の姿に、神の愛を見ます。失敗や喪失を経験したからといって自分を責めるのではなく、今も帰る道が開かれていることを、あなたと一緒に考えてみたいと思います。

憐れみをもって迎える愛

放蕩息子が帰って来たとき、父は彼を憐れみ、迎え入れます。この場面は過ちを軽く扱うという意味ではなく、打ちのめされた人の境遇から目をそらさない憐れみを示していると、私は信じています。

私が聖書の中で出会う神は、私たちのために長く忍耐し、慈しみを注いでくださる方です。その愛が今の私たちのいるところにも届いているという信仰を、あなたと分かち合いたいと思います。

再び息子として迎えられる喜び

父は良い服と指輪と履き物を用意し、失われていたのに再び見つかった息子を喜びます。この場面は、ルカによる福音書 15:22-24で読むことができます。私はこの歓迎の中に、壊れていた関係が回復し、新しい歩みが始まる姿を見ます。

神のもとへ帰ることは、単に宗教的な義務を果たすことではありません。愛される子どもとして、もう一度迎え入れてくださる懐へ帰ることです。この信仰を押しつけるのではなく、父の愛と関係の回復が私たちにとってどのような意味を持つのか、一緒に考えてみたいと思います。

☕ 一緒に考えてみましょう

  1. 自分の力だけで背負おうとしていることは何ですか。
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  1. 自分を待ってくれたり、もう一度手を差し伸べてくれたりした経験には、どのような意味がありましたか。
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  1. 誰かを判断する前に、その人の苦しさを思いやるために何ができるでしょうか。
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