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教会共同体とキリストのからだ · 歩みの振り返り

学習テーマ: 教会とともに信仰生活を送りましょう · わが愛、わが教会 · キリストにあって一つのからだとなりました

私たちがすべての人を救うことはできません。人の心を無理に開かせることもできず、私たちの人間的な努力によって誰かを新しく生まれさせることもできません。

しかし、確かな真理があります。神が今も親しく働いておられる魂たちがいるという事実です。

神はある人の心に、まず触れておられます。人生の虚しさを感じさせ、永遠について問いかけさせ、これまで頼みとしていた世のものが揺らぐとき、創造主なる神を求めさせられます。そして神は、まさにその魂に命の福音を伝える一人を探しておられるのです。

ですから今、私たち自身に問うべき最も重要な問いはこれです。

「あなたは福音によって備えられていますか?」

福音を託された働き手の召し

収穫するものは多いのですが、働き手が少ないのです

イエス様は群衆を見て深くあわれまれ、弟子たちに マタイによる福音書 9:37-38 において、収穫は多いが働き手が少ない、だから収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい、と語られました。

神が備えておられる収穫すべき魂は、確かに存在します。問題は、その魂たちに仕える働き手です。

神が心を開いておられる一人の魂があなたのそばを通り過ぎていくのに、いざ自分が福音によって備えられていないなら、どうなってしまうでしょうか。その人が人生の意味を問うているのに世間話ばかりを並べ立て、死の後の永遠に悩んでいるのに何の答えも手渡せず、神を探し求めているのに自分の内に福音の確信が明確でないとすれば、どれほど残念なことでしょうか。

だからこそ神は、今日あなたを福音の働き人として備えさせられます。

  • 福音を全きまでに知り、
  • 福音を固く信じ、
  • 福音の真理を順を追って解き明かし、
  • 一人の魂に命の福音を大胆に伝えることのできる人。

神は、まさにそのような人としてあなたを立てることを願っておられます。

福音を沈黙の中に葬り去ってしまわないでください

私たちは、価なき恵みの福音によって救われました。ところが、いざその福音が自分の内でまったく動かず沈黙しているなら、静かに自らを振り返らなければなりません。

十字架を知り、復活を知り、救いを知っていると考えていながら、自分の唇を通して一度も福音の流れ出たことがないなら、私たちの信仰を深く点検してみる必要があります。

神は私たちを、福音を一人で保管するだけの人として召されたのではありません。命の福音を隣人へと流し送る伝達者として召されたのです。

ですから私たちは、このように祈るようになります。

「神様、福音を胸にしまい込んだまま沈黙する者とならないようにしてください。
私の内に福音の真理を鮮明に打ち立ててくださり、主の備えられた瞬間に私の唇を開いてください。」

神は備えられた人に魂を委ねられます

善い羊飼いは、羊たちを青草の原と憩いの水のほとりへと導いて草を食べさせます。同様に、私たちが福音によって備えられており、私たちの内に命の御言葉が豊かに宿り、一人の魂への神の愛が流れているなら、神はあなたに大切な魂を委ねてくださることができます。

「この人に、わたしがお前に委ねた命の御言葉を伝えてやりなさい。
道を見失ったこの魂に、天のパンを食べさせてやりなさい。」

ですから、福音によって備えられていく歩みは、単に自分自身の知識を蓄える時間ではありません。神があなたに委ねられる一人の魂のための聖なる備えなのです。

キリスト者は神の国のための兵士です

私たちの信仰の究極的な目的を、小さく縮小してしまってはなりません。神に出会って心の慰めを得て、平安を味わい、私の生活が少し良くなることだけが信仰のすべてであるはずがありません。

私たちは、神の永遠の国のために召された人々です。そしてその国の中心には、いつでも福音があります。

神が私たちの手に握らせてくださった聖なる武器は、人間の華やかな知恵や弁舌ではありません。世の哲学でも、洗練された宗教的技術でもありません。ただイエス・キリストの福音です。

魂を生かす福音の中心

福音は魂を救う神の力です

福音の力とは、いったい何でしょうか。まさに、罪人を救って永遠の命に至らせる神の力です。

人間の根源的な悲劇は、罪のために聖なる神との関係が断ち切れてしまったことにあります。外見上は何の問題もなく平穏に暮らしているように見えても、すべての人生は罪の下に置かれており、その罪の最後は永遠の死です。

ですから、道を見失った魂を見つめるとき、私たちは無関心に通り過ぎることはできません。その魂がまだ神を知らず、救われていない状態であるなら、その人にとって今最も切迫し本質的なものは何でしょうか。

世的な助言や物質的な助けよりも先に必要なものがあります。まさにイエス・キリストの福音です。

福音の中心はイエス・キリストの十字架と復活です

このコースでともに深く学んだ福音の中心は、あまりにも明確です。イエス・キリストの贖いの血潮と、勝利の復活の命です。

イエス様は十字架において私たちが背負いきれなかったすべての罪の代価を代わりに支払われ、復活されることによって罪と死の暗闇を完全に打ち破られました。

ですから、人を滅びから救い出して命へと移す力は、世のいかなる場所にもありません。**ただイエス・キリストの十字架と復活の福音の内にのみあります。**だからこそ福音の働き人は、この真理を誰よりも鮮明に心に抱いていなければなりません。

一人の魂の霊的状態を見分けることができなければなりません

家族を見つめるときも、友人や職場の同僚に接するときも、長年教会に出席している人に向き合うときでさえ、私たちは一つの本質的な問いを心に抱くことができなければなりません。

「この魂は、本当に新しく生まれただろうか?」

「教会に通っているから大丈夫だろう」「人柄が穏やかで優しいから問題ないだろう」と漠然と安心していてはなりません。救いとは、宗教的活動の結果や人間の道徳性ではありません。

自らの罪を悟って悔い改め、イエス・キリストの十字架の贖いと復活を全き信仰によって受け入れることで新しい命を得る霊的な出来事です。ですから、そばにいる魂の救いが明確でないなら、私たちは温かい関心と祈りをもって、その人を福音の御前へと導かなければなりません。

福音が明確になると、ほかの条件よりも魂が先に見えてきます

福音が薄れているときは、世のありとあらゆる問題や条件がどれも同じような大きさで迫ってきます。しかし、福音の絶対的な価値が心の中で鮮明になると、人生の優先順位が根本から変わります。

その人がどのような職場に通っているか、いくら稼いでいるか、世で何を成し遂げたかよりも、はるかに大きく本質的な問いが目に留まります。

「この魂は、永遠の命を得ただろうか?」

この世の人生は束の間過ぎ去りますが、永遠は果てしないからです。この永遠の現実と切迫さを悟るようになるとき、福音は私たちの心を全きまでに捕らえ始めます。

御言葉に捕らえられた人にならなければなりません

初代教会の歴史を振り返ると、福音は決して頭の中の思弁や知識にとどまることはありませんでした。神の御言葉が、人の心霊を全きまでに捕らえました。

聖書は 使徒行伝 18:5 において、パウロが御言葉に捕らえられ、ユダヤ人たちにイエスはキリストであると証ししたと記録しており、使徒行伝 19:20 では、主の御言葉が力強く広がり、勢力を増していったと証言しています。

人が自分の力と知恵によって偉大な業を成し遂げたのではありません。**生きている神の御言葉が働いたのです。**御言葉が一人の人を捕らえ、その人が従順して御言葉を宣言するとき、神はまさにその御言葉を通して数多くの魂を救われました。

一人の魂に向けられた神の御心

世が見捨てるとしても、福音は変わらない真理です

福音を伝えていると、時には人々の拒絶に向き合うことがあります。あざ笑われたり冷たく無関心にされたり、福音の真理を疎ましく思われることもあるでしょう。

しかし、世の人々の反応が福音の真理性を揺るがすことはできません。

神は独り子イエス・キリストをこの地にお遣わしになり、十字架において私たちのすべての罪を担当させ、死者の中から再びよみがえらせてくださいました。聖書は 使徒行伝 17:30-31 において、神は今、どこででもすべての人に悔い改めるように命じておられる、定められた人によって義をもって天下を裁く日を定め、その方を死者の中からよみがえらせることによって、すべての人に信じるに足る確かな証拠をお与えになった、と宣言しています。

福音は、人間が考案した理論ではなく、生きておられる神が全人類に与えられた永遠の救いの御言葉なのです。

悔い改めてイエス・キリストを信じなければなりません

福音の御言葉を聞いたとき、私たちの応答は明確でなければなりません。

第一は、真の悔い改めです。神なしに自分が自分の人生の主人となって生きてきた自己中心的な座から、へりくだって立ち返ることです。

第二は、イエス・キリストを信じることです。宗教的な形式や道徳的な行いが私たちを義とすることはできず、人間の善行によって罪の負債を返すこともできません。ただ十字架と復活によって救いを完成されたイエス・キリストを、心の中心に救い主として、また主として受け入れることです。

一人の魂が立ち返ることを神は最も喜ばれます

福音を伝えるとき、多くの人が聞かずに通り過ぎてしまうかもしれません。しかしその中で、たった一人の魂でも神の懐へと帰ってくるなら、それは天全体の喜びとなります。

イエス様は ルカによる福音書 15:7 において、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも、大きな喜びが天にあると語られました。

父なる神の目には、一人の魂が天下よりも尊いのです。ですから福音を伝える人は、目の前の数字や群衆に縛られず、主が見つめておられる一人の人を見つめます。

たとえ他のすべての人が背を向けるとしても、一人の人が心の扉を開いて悔い改め、イエス様と人格的に出会うなら、それだけでも私たちは神の御前に涙ながらの感謝をささげることになるのです。

福音の価値を深く知る人が福音を伝えます

手にどれほど高価な宝を握りしめていても、その価値を見分けることができなければ箪笥の奥に放置してしまうものです。福音も同じです。多くの人が福音を知っていると言いながらも、日々の生活においては片隅へと追いやったまま生きています。

福音がどれほど栄光に満ち、尊いものであるかを、まだ深く悟っていないからです。

しかし全世界の知識や哲学や宗教を合わせても、永遠の滅びの下に置かれた罪人を生かし出す力は、ただイエス・キリストの十字架と復活の福音だけです。

であるならば、今日私たちが抱いているもののうち、最も尊く気高いものは何でしょうか。まさに神が私たちに価なしに与えてくださった福音です。

私たちが受けた最も大きな恵みを分かち合わなければなりません

神は、量り知ることのできないこの聖なる福音を、私たちに価なしの贈り物としてくださいました。だからこそ使徒パウロは ローマ人への手紙 1:14-15 において、ギリシア人にも未開人にも、知恵ある人にも愚かな人にも、自分は負債を負う者であると告白し、ローマにいる人々にも福音を伝えることを切に願ったのです。

福音によって救われたということは、人が受けうる最大の恵みを受けたという意味です。その恵みの重みを真に悟った人の心には、このような聖なる告白が芽生えます。

「この途方もない命の福音を、私一人だけで抱え込んで生きていくことはできない。」

福音を伝えずにはいられない聖なる中心

パウロは コリント人への第一の手紙 9:16 において、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません、それは私に課せられた必然だからです、もし福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです、と告白しました。

これは、重い宗教的義務感に押しつぶされて無理やり口にした言葉ではありません。福音の栄光と命の価値をあまりにも大きく経験した魂の、切実な告白です。

「死にゆく私を生かしてくださったこの命の福音を、どうして伝えずにじっとしていられようか。」

まさにこの熱い心こそが、福音に捕らえられた人の中心です。

失われた魂への神の御心を求めなさい

私たちは、道を見失った魂たちを見つめられる父なる神の切ない思いを知らなければなりません。神は、たった一人の魂も滅びることなく、すべての人が悔い改めて立ち返ることを切に願っておられます。

ですから私たちは、静かに膝をかがめて祈るようになります。

「神様、父のそのあわれみの心を私に注いでください。
道を見失った魂を見つめられる主の涙を私に与えてくださり、彼らの永遠の運命を無関心に通り過ぎることがないようにしてください。」

福音の真理を正しく知ることと、父なる神の心を抱くことは、決して切り離されることはありません。

備えられた人に神は魂を委ねられます

私たちが福音の真理で満たされ、神の御言葉を正しく知り、一人の魂への愛と祈りをもって目を覚ましているとき、神は私たちを信頼し、ご自身の大切な羊を委ねてくださいます。

「わたしの羊を飼いなさい。
道を見失ったこの人に、わたしがお前に与えた命の御言葉を伝えてやりなさい。」

神の命を伝える通路として用いられることは、キリスト者にとってこの上ない栄光です。ですから、福音の学びを単なる知識の習得にとどめないでください。生活のすべての瞬間において、魂を生かす備えができている生きた働き人として立たなければなりません。

教会はキリストのからだ

一人の魂を救いへと導くことにとどまりません

この歩みにおいて、私たちが向き合う極めて重要な結論があります。

私たちが福音を伝えて一人の魂がイエス様を信じて新しく生まれたなら、その次はどうなるでしょうか。その人が一人で信仰生活を続けていくよう放っておくことが、神の御心である全き姿でしょうか。

決してそうではありません。福音によって新しく生まれた人は、必ずキリストのからだなる教会に深く結ばれなければなりません。

信仰は一人で歩む道ではなく、からだとして召された道です

今日私たちは、すべてのことを個人的に解決できる時代を生きています。一人でスマートフォンを使って説教の動画を見、一人で本を読み聖書を学ぶこともできます。そうしているうちに信仰生活でさえも、「私と神の二人だけの関係で十分だ」と考えがちになります。

しかし聖書が啓示する神の聖なる計画は、決して個人主義にとどまりません。神は、救われた子どもたちを教会という一つのからだの肢体として召されます。

教会はキリストの生きているからだです

聖書は、教会を単なる宗教的な同好会や人間的な社交の集まりとは呼びません。まさにキリストのからだであると宣言しています。

使徒パウロは コリント人への第一の手紙 12:27 において、あなたがたはキリストのからだであって、それぞれはその肢体である、と宣言しています。

イエス様を信じた私たちは、めいめい散らばっている孤立した信仰者ではありません。キリストの一つのからだに有機的に結ばれた肢体たちです。ですから、教会共同体に結ばれることは信仰の選択的な追加事項ではなく、霊的な命と成長のための必須の神の秩序なのです。

からだにつながっているとき、まことの命が供給されます

からだから切り離された手や足が一人で生きられないように、キリスト者はキリストのからだなる教会に固く結ばれていなければなりません。

私たちは教会共同体の中で、

  • 神の純粋な御言葉を供給され、
  • 肢体たちの熱い祈りの支えを受け、
  • キリストの真の愛を経験し、
  • 成熟した勧めと慰めを受け、
  • 多様な肢体の賜物を通して全きものとされていきます。

そして神があなたに与えてくださった賜物をもって、また別の弱い肢体に仕えて建て上げていきます。これこそが聖書が示す、真のからだの原理です。

教会に「通うこと」とからだに「結ばれること」は異なります

週に一度礼拝堂に出席して静かに帰る宗教生活と、キリストのからだなる教会に深く根を下ろして肢体たちと結ばれて生きていくこととは、まったく異なります。

真の結びつきには、

  • 人格的な霊の交わりがあり、
  • 互いへの聖なる責任があり、
  • 痛みをともに分かち合う配慮があり、
  • 神の国へ向かう共通のビジョンがあり、
  • 互いの生活と成熟のために涙をもって執り成す関係があります。

福音によって救われた人に、私たちはこの驚くべき共同体的な結びつきの喜びを教えてあげなければなりません。

伝道者は魂をご自分につなぎ留めません

私が誰かに伝道し、御言葉で養育したからといって、その人が自分個人の追従者や私有物になるわけではありません。その魂は、ただ血の代価をもって買い取られた主のかけがえのない人です。

ですから福音を伝えた人は、その魂を自分との私的な関係だけに縛りつけず、キリストのからだなる教会全体の中に根づくよう、広い懐をもって助けなければなりません。

私一人で一人の魂のすべての必要を満たすことはできません。その人には、キリストのからだ全体の多様な賜物と愛が必要なのです。

教会に結ばれるとき、一人では与えられない豊かな恵みを味わいます

私たちが一人の魂をどれほど深く慈しみ愛するとしても、その人に必要なすべてのものを一人で供給することはできません。しかし、からだなる教会の中には、主が立てられた多彩な肢体たちがいます。

ある肢体は御言葉の深い洞察をもって助け、ある肢体は夜昼涙の祈りを積み重ね、ある肢体は温かい慰めと励ましを差し伸べ、ある肢体は実際の生活の必要を満たしてあげ、またある肢体は道を見失わないよう知恵をもって勧めてくれます。

ですから、一人の魂が全きからだに結ばれるとき、一個人が決して与え尽くすことのできない神の豊かな恵みが、絶え間なく流れ込んできます。

教会は愛の中でともに育っていく共同体です

聖書は、教会の中の各肢体が互いに固く結ばれ、キリストの満ちあふれる豊かさに至るまでともに育っていくと語っています。

使徒パウロは エペソ人への手紙 4:15-16 において、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する、キリストによってからだ全体は、すべての節々によってしっかりと組み合わされ、結び合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより、からだを成長させ、愛のうちに自らを建て上げるのである、と証言しています。

教会の唯一のかしらは、イエス・キリストであられます。私たちはかしらであられる主の下で互いに結ばれており、各肢体が自分に与えられた賜物に応じて喜んで献身するとき、からだ全体が健康に、美しく育っていくのです。

福音を受け継いで伝える弟子の人生

伝道の完成は、福音を伝える別の弟子を立てることです

一人の人に福音を伝え、その人が悔い改めてイエス様を信じて新しく生まれたなら、次の歩みが続けられなければなりません。その魂がキリストのからだなる教会の中で健全に根を下ろし、育っていくように顧みなければなりません。

  • 福音を全きまでに伝え、
  • 御言葉によって養育し、
  • からだなる教会に深く結ばせ、
  • ついにその人自身もまた別の魂に福音を伝える収穫の働き人として立てること。

これこそが、聖書が示す福音の働きの全き完全な青写真です。

私たちはキリストにあって一つのからだとなりました

私たちがともに分かち合う聖餐もまた、私たちがキリストにあって一つとされた一つのからだであることを明白に示しています。

使徒パウロは コリント人への第一の手紙 10:16-17 において、私たちが裂くパンはキリストのからだにあずかることではないか、パンは一つだから、多くの私たちは一つのからだである、私たちはみな一つのパンを分け合っているからである、と語っています。

私たちは、それぞれ別々に救われて勝手気ままに生きていく独立した存在ではありません。イエス・キリストの尊い血潮によって贖われ、一つのからだとして結ばれた聖なる肢体たちなのです。

福音を「学んだ人」から「福音によって生きる人」へ

このコースでは、実に尊く本質的な真理を学びます。人間の実存的状態、罪の本質、悔い改めと新生、天国と地獄の実在、イエス様が唯一の救い主であられる明白な証拠、十字架の贖いの愛、復活の命と望み、真の信仰、そしてキリストのからだなる教会に至るまで、福音の核心を見つめます。

しかし、これらすべての真理をノートによく整理しておくことが、私たちの最終目標であるはずがありません。今やその福音が、あなたの生活の中で真実に生きて動かなければなりません。

目の前の一人の魂に福音をもって仕えることができなければなりません

福音を心に刻んだ人の実際的な問いはこれです。

もし今日、神があなたの目の前に道を見失った一人の魂を送ってくださるなら、あなたはその人にイエス・キリストの福音を順を追って解き明かしてあげられるでしょうか。

  • 「人生はなぜこれほど虚しく不安なのだろう?」
  • 「死の後には本当に何が待っているのだろう?」
  • 「なぜほかの宗教ではなく、ただイエス様だけを信じなければならないのか?」
  • 「どうすれば罪の赦しを受け、真の救いを得ることができるのか?」

その人がこのような魂の切迫した問いを投げかけてきたとき、聖書の福音をもって温かく明確に答えてあげられるでしょうか。これこそが、まさに神が探しておられる備えられた福音の働き人なのです。

福音を抱く者の信仰と祈り

一人の魂を最後まで愛をもって仕えなさい

福音の御言葉を一度手渡したからといって、私たちの仕えが終わるわけではありません。

あきらめずに涙をもって祈ってください。忍耐をもって待ってください。変わらない神の愛をもって包み込んでください。御言葉によって助け、信仰の上に堅固に立て、キリストのからだなる教会に深く結ばれるように導いてください。

そうしてついにその魂が、また別の人に福音を伝える弟子としてしっかりと立ち上がるまで、ともに歩んでください。一人の魂を得るということは、単に教会の出席名簿に名前を一つ書き加えることではありません。神の永遠の命を宿した真の弟子を立て上げる、聖なる働きなのです。

愛するあなたにこの福音を伝えます

今、この文章を読んでおられるあなたに、最も厳粛で本質的な問いを一つ投げかけたいと思います。

「あなたは真実に、イエス・キリストの福音を信じていますか?」

人間は罪のために、命の源であられる神から離れ、その罪の結末は免れることのできない永遠の死でした。しかし神は、あなたを見捨てられませんでした。独り子イエス・キリストをお遣わしになり、あなたのすべての罪を代わりに背負って十字架で血を流して死なせ、三日目によみがえらせることによって、永遠の命の道を開いてくださいました。

今、神は愛をもってあなたを招いておられます。自ら主人であった人生から立ち返り、イエス・キリストを心の中心に救い主として、また主として受け入れてください。

主イエスを信じなさい

聖書は 使徒行伝 16:31 において、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と明白に約束しています。

宗教的儀式があなたを救うのではありませんし、人間的な善行があなたの罪を洗い流すのでもありません。ただ十字架で死なれ復活されたイエス・キリストだけが、あなたの唯一の救い主であられます。ためらうことなく、その恵みの主の懐へと帰ってきてください。

信仰の旅路を一人孤独に歩まないでください

イエス・キリストを信仰によって受け入れたなら、今やキリストのからだなる教会の中へと入ってきてください。

信仰の肢体たちとともに手を取り合い、愛の中で育っていってください。命の御言葉を供給され、肢体たちの祈りの支えを受け、温かい愛を分かち合ってください。そして、神があなたに委ねてくださった尊い賜物をもって、弱い肢体たちに仕えてください。

そうしてついに、あなた自身もまた誰かにこの栄光ある福音を大胆に伝える祝福の通路となってください。

今や私たちがささげるべき祈りは明白です

私たちはへりくだってひれ伏し、神の御前にこのように祈ります。

「主よ、私を主の畑で働く収穫の働き人として形づくってください。
十字架と復活の福音を誰よりも鮮明に知らしめ、失われた魂を見つめられる主の切ない心を私に注いでください。
神の備えられた一人の魂が私の前に立ったとき、沈黙することなく、イエス・キリストの福音を大胆かつ温かく伝えるようにしてください。
私を通して宣言された福音によって魂が生かされ、その魂がキリストのからだなる教会の中に深く根を下ろし、ともに育っていくようにしてください。」

福音が私のところで立ち止まらないようにしなさい

私たちは、神の無償の恵みによって永遠の命の福音を受けました。その福音が私を生かし、私たちに永遠の望みを与えてくれました。

ですから、この尊い福音が私一人だけのところで立ち止まってしまわないようにしてください。愛する家族へ、友や隣人へ、日々向き合う職場の同僚たちへ、そして神があなたの人生の中に出会わせてくださる一人の魂へと、この福音を流し送ってください。そしてその魂を、キリストのからだなる共同体の中に堅固に建て上げていってください。

これこそが、福音を抱く人が歩むべき道です

  • 福音の永遠の価値を深く悟り、
  • 神の生きている御言葉に全きまでに捕らえられ、
  • 聖霊の中で目を覚まして祈り、
  • 主の探しておられる一人の魂へと静かに歩み出し、
  • 十字架と復活の純粋な福音を伝え、
  • その魂が悔い改めて信仰に至るまで愛をもって仕え、
  • 新しく生まれた命が健全に育つようキリストのからだなる教会に結ばせ、
  • ついにその人自身もまた別の魂を生かす弟子として立て上げる生活。

これこそが、まさに主の探しておられる収穫の働き人の幸いな生活です。

このコースで学んだ福音は、日々の生活へと続いていきます。福音によって生きる私たちの歩みは、今日も続きます。

「主よ、私を福音の忠実な働き人として用いてください。
御言葉に全きまでに捕らえられた者とならせ、失われた一人の魂へと愛をもって歩み出させ、私がこの地に息をしている間、豊かな命の実を結ばせてください。」

私を生かした福音が私を通路として世へと流れ、道を見失った魂が主の懐へと帰ってきて、その魂がキリストのからだの中に美しく建て上げられ、その教会を通して再び福音が全世界へと向かって広がっていくこと。

それこそが、神が今日私たちに福音を委ねてくださった理由であり、福音に負い目のある者として私たちが生涯喜んで歩むべき、最も栄光ある道なのです。

An Open Journey Through the Gospel
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